2018年度 文化財学・民俗学部会発表要旨


1.インド、パーラ朝におけるマーリーチーの像容の変化理由と
    大正大蔵経図像部の摩利支天について

                                            広島大学 田中 宏

 インド、パーラ朝におけるマーリーチーの尊像は、猪車に乗る作例が大半であるものの、馬車に乗るマーリーチー像も作成されていることは先行研究で指摘されていたところである。しかしながら、馬車に乗るマーリーチーは六臂像に限ってみられること、この馬車に乗る六臂像のマーリーチーは顔の左面が猪ではなく人面に変化していること、は別の機会で発表した。今回は、そのようなイレギュラーな形態の尊像が作成された理由についてヴァラーハ神との関係から考察したので、その結果を発表する。
 また、大正大蔵経図像部に収められた六点ある多臂の摩利支天像は、最も古い図像抄をオリジナルとした写しであることを示し、あわせて、図像抄の摩利支天の像容には経典の儀軌からは説明できない表現があり、それはインド、マーリーチーの特徴を受け継いだ痕跡である可能性であることを示したい。


2.長福寺三重塔について

                                             広島大学 平 幸子

 長福寺は岡山県の東部、兵庫県境に近い美作市真神にある真言宗の古刹である。もとは真木山の山上に伽藍を構えていたが昭和3年になって山麓に移転し、山上に残されていた三重塔も昭和26年に山麓に移建された。この三重塔は弘安8年(1285)に当地方領主江見左馬頭が大願主になって建立したもので現存する岡山県下最古の建築である。和様の三重塔であり、上重の逓減率が大きく美しい塔姿を見せている。塔の高さ22.1メートル(うち鉄製相輪高さは7.0メートル)屋根は杮葺きで各層屋根の隅の端に風鐸を吊るしている。塔の初重内部には中央に心柱を建て、その周囲に四天柱を配する平安時代を思わせる古式平面をとっているが、心柱は上方の部分とは別材となった見せかけのもので、構造上注目されている三重塔である。塔の組上げ構造、また棟札写にある備前国邑久郡大工、組物等を考察して建立年代を検証する。

 
3.円通寺如法経塔残闕について

                                     中津市教育委員会 曽我 俊裕

 大分県宇佐市の円通寺は、寛元元年(1243)に臨済宗黄龍派の神子栄尊を開山として建立された県内最古の禅刹である。境内北側の歴住墓地に、塔身と相輪からなる石造宝塔の残闕があり、調査の結果、国東塔に極めて近い形状を有していること、銘文から元応2年(1320)に第三世住職・本庵の供養のために造立された如法経塔であったことが判明した。
従来、如法経は天台宗山門派の修法という見方が強く、当地域における如法経塔の代表例である国東塔も、これまで天台宗の六郷山寺院との関係性の中でしか語られてこなかった。しかし、僅かながら禅僧の携わった如法経の記録があるほか、西光寺国東塔など造立に禅僧の関与が考えられる作例もある。
 本発表では、円通寺如法経塔残闕を通じて、宇佐宮や六郷山寺院の復興に禅僧が携わったことを再確認すると共に、特に追善・逆修の側面から彼らが如法経塔を造立した背景について若干の考察を加えたい。


4.神辺本陣の建築的特色について

                                           広島大学 山口 佳巳

 山陽道(西国街道)の宿駅、神辺宿の本陣であった神辺本陣は、本陣としての姿をよく残していることから広島県の重要文化財に指定されている。これまで、神辺本陣の建造物について詳細な建築史的調査が行われたことはなかったが、平成29年から30年にかけてその機会に恵まれた。
 神辺本陣の建造物には幕末から明治にかけて再建あるいは改築されたものが多いが、最も重要な御成の間を含む座敷部は、延享5年(1748)に建築されたものが現存する。本発表では、その座敷部についての建築的特色を示す。御成の間が上段となっていないこと、御成の間及び二の間の内法長押が上下に大きな面を取ることなど、一般的な本陣建築に見られない特色がある。また、同じく山陽道に所在する矢掛本陣などと比較検討することにより、その特質も明らかにしたい。


5.「神辺西本陣図」について
    ―「菅波信道一代記」との比較検討を中心に―

                                          福山大学 柳川 真由美

 天保3年(1832)に作成された「神辺西本陣図」は、敷地内の建造物の配置及び間取りを図示しており、近世における神辺本陣の姿を伝える貴重な資料である。一方で、加筆修正を示す多数の貼紙や、明治22年(1889)に大幅に手を加えたことを示す「凡例」の内容から、現状図の敷地内の様子は作成当時と異なることが知られる。
 近世の神辺本陣の建造物に関連する記録としては、菅波序平(信道)による自叙伝「菅波信道一代記」が知られており、普請や建物の規模、建築年代への言及は豊富である。また、「当国城主阿部伊予守様御巡見控」などには各部屋の名称や規模が記されている。いずれも近世期の神辺本陣の姿を考察する上で重要な資料と言えるが、管見の限り、これらの記述を本陣  図の描写と比較検討することは行われていない。
本報告では、本陣図の貼紙下の描写と「菅波信道一代記」に記録された建造物の名称や規模との比較検討を通じて、作成時の本陣図の姿と敷地内の様子の再現を試みたい。